今日で東日本大震災から10年になりました。岩手県盛岡出身者として、現在思う事を残しておこうと思います。

仕事中

10年前は製造業の会社員で、埼玉県(とは言いつつほぼ群馬県)の開発拠点に勤めていました。具体的に何をやっていたかは忘れましたが、パソコンに向かって作業していた記憶があります。突然大きく揺れて、訓練以外で始めて机の下に潜りました。その後、揺れが少しだけおさまり、その間に外に避難しました。

外に避難したあとも、大きな揺れは続き、すぐに家に帰れという会社からの指示が出て、帰宅することになりました。

帰宅後にジム

当時は、会社の近くの家を借りており、自転車で通勤していたので、何事もなく自転車にのってそのまま家に帰りました。金曜日はジムに行くことを習慣にしており、帰宅後、本棚から飛び出た散らかった本を横目に、着替えを用意し、自転車でジムに向かいました。

ランニングマシーンにはテレビがついており、そのテレビを見て始めてひどい状況になっていることを知りました。停電や津波の情報などをNHKが逐一報道しており、それを通じて、実家の両親の事が心配になりました。電話をかけましたが、電話も通じず、そのあたりから自分の中での不安が大きくなっていたのを覚えています。

岩手は元々地震が多い地方で、私がいたときから震度5の地震はしばしば起きていましたし、地震慣れしていたのは間違いありません。確か、3.11の前にも大きな地震が起きていたと記憶しています。

盛岡などの内陸部の人々は今回の地震はいつもより大きかったなで終わっていたと思いますが、沿岸部の人々はそれで終わらなかったのが、今回の大惨事に繋がってしまったように感じます。

また、その後、原発がひどいことになりそうだと言うことで報道の焦点がそちらに移っていき、有名人や資本を持っている人がどんどん関西の方に避難するというニュースを聞きました。

北海道旅行(函館~札幌)

正確な日付は忘れましたが、3.11から1週間後ぐらいに、高校の友達の結婚式の予定がありました。その友人は北海道のどこかに住んでいて、札幌で式を上げるということでした。別の高校の時の友人と一緒に、せっかくだから函館から入って、特急北斗で札幌に行こうという話になり、函館行きの飛行機を用意していました。

式自体は延期になったのですが、せっかく飛行機のチケットを取ってあったので、予定通り函館に向かいました。

函館行きの飛行機は通常通り飛んで、津波でやられた港の海鮮丼屋さんで、現地の人の話を聞きながら原発のリアルタイムの様子をテレビを通じて見てました。結果としては大爆発などは起きず、今現在に至りますが、その報道の様子を見て色々と違和感を感じたのを覚えています。

最後に

東日本大震災から10年という事で、忘れないように自分の周りに起きた事実だけ書いてみました。

CNNかBBCかどちらかは忘れましたが、両親を失った少女が海に向かって親の名前を叫んでいる後ろ姿を編集なしに流しっぱなしにしていたのを見て、改めて地震がもたらした悲惨な状況を実感することが出来ました。

この地震や関連する原発事故などを巡って、様々な立派な肩書きを持つ方々がテレビなどの報道機関を通じてコメントしていましたが、この名もなき少女の姿だけでこの地震がいかに悲惨だったのか後生に伝わるのではないでしょうか。

普段の生活の中でなかなか意識することはないですが、人生は有限で誰しも必ず死ぬし、それがいつ誰に起きても不思議ではありません。会社を辞めて独立してから、その認識がとても強くなりました。

30代の後半になり、20代にはほとんどなかった身近な人間の死がだんだんと起こるようになりました。今後、結婚式よりも葬式に出る割合の方が高くなるでしょう。その流れの中で死がいつ自分に降りかかってくるか分かりません。

大震災から10年を迎え、今後どこまで生きるか分かりませんが、いつ死んでもいいように残された人生を一生懸命生きていこうと改めて思いました。

最後になりますが、改めてご遺族の方々にお悔やみを申し上げます。